peach's blog

障がい者の目線でいろんな記事を書いています。

『ひな祭り』(桃の節句)ですね!

おはようございます!peachです♪

3月3日は何の日?…「ひな祭り」ですね♪ 別名では「桃の節句」とも言います。

 今日は「ひな祭り」の豆知識を書いてみます。長くなりましたが、ぜひお読みいただけると嬉しいです(*^^*)

へぇ~!と思われた方は、はてなスター・ランキングバナーのどちらでもかまいませんので、ポチッと押していただけるともっと嬉しいです♪(笑)

 

 

◇ひな祭りとは

「ひな祭り」は、女の子の健やかな成長を願って、美しいひな人形を飾ってお祝いをする、日本の春の伝統行事です。実は旧暦では桃の花が咲く季節になることから、「桃の節句」とも言われるようになっています。

◇実は女の子の成長を願う行事ではなかった!?

ひな祭りの ルーツは古代の中国にあるようです。古代中国では、”季節の変わり目は災いをもたら邪気が入りやすい時期”と考えられていて、3月最初の巳の日=上巳(じょうみ)に水辺で禊(みそぎ)を行ったり、盃(さかずき)を水に流して自分の所に流れ着くまでに詩歌を詠む「曲水の宴(きょくすいのうたげ)」を行う風習がありました。
中国の風習が遣唐使によって日本に伝わると、禊の神事と結びついて、天子(今でいう天皇)をお祓いするための儀式になりました。
平安時代になると、宮中行事へ変化したといわれています。川のほとりで災厄を祓う「上巳の祓い」として「曲水の宴」を催したり、草木や紙などでかたどった人形(ひとがた)で自分の体をなでて穢れを移して、川や海へ流す儀式が行われていました。現在、日本の各地で行われる「流し雛」はこの名残とされています。

◇江戸時代から「上巳の節句」が女性のお祭りに

宮中行事の「上巳の祓い」が、時とともに武家社会へ浸透します。室町時代の頃になると日付が変動しないよう、3月3日と固定されました。室町時代から安土・桃山時代にかけては、まだひな人形を飾るような今のひな祭りとは違い、祓いの行事でした。
もともと「上巳の節句」は男女の区別なく行われていた行事だったのが、「端午の節句」が男の子の節句として祝われるようになったので、3月3日が女の子の節句として祝うことが定着していきました。 

 ◇「流し雛」から「ひな人形」へ

穢れ(けがれ)を移すために使われていた人形(ひとがた)は、川に流すことから素材も藁や紙など質素なものでしたが、どのようにして今のように大切に愛でられる存在へと変化したのでしょうか?
 平安時代では人形(ひとがた)とは別に、宮中で幼女が遊ぶ小さな人形(にんぎょう)がありました。この人形を使った遊びを「ひいな遊び」といいます。
そのひいな遊びの人形(にんぎょう)と、身代わりとなる人形(ひとがた)が結びついて、人の厄を受ける男女一対の紙製立雛が誕生し、「ひな人形」の原型になります。

人形作りの技術が発展して立派なひな人形ができるようになり、ひな人形は流すものから飾るものへと変化します。上流階級では、嫁入り道具に豪華なひな人形を持たせるようになり、婚礼の様子や婚礼道具を模したものが好まれました。
 江戸時代以降、ひな人形はその家の財力の象徴として華やかさを増してゆき、最初は「内裏雛(だいりびな)」だけだったものから、二段、三段・・・七段と、豪華な雛壇を飾るようなっていきます。
★過熱していく様を見た江戸幕府は、贅沢を制限する禁令を出したらしいです。

◇主役は若い娘と赤ちゃん 

初めは若い娘たちが主役だったひな祭りの行事に、赤ちゃんが加わります。
女の子が生まれるとひな人形を用意して、その子の形代(かたしろ)と考えて飾り、“どうぞ災いがふりかかりませんように、また、美しく成長してよい結婚に恵まれ、人生の幸福を得られますように”という願いを込めてお祝いする「初節句」の風習が広まります。ひな祭りは、時代の流れとともに祓いの儀式であったものが徐々に形を変え、女の子の成長と幸せを願うお祭りとなっていったのです。

 

*******************

今回は『ひな祭り』について豆知識を記事にしてみました。いかがだったでしょうか??古代中国から伝わり、形式が変わりながら江戸時代以降から今日にいたるまでずっと受け継がれている伝統行事でした。ひな祭りの歴史が紐解けました。

また「peach's blog」をのぞきにきていただければ嬉しいです♪

長い記事でしたが、お読みいただきましてありがとうございます

♥ポチッと応援のクリックを押していただけると嬉しいです♥


人気ブログランキングへ