peach's blog

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*奇跡の人*ヘレン・ケラー女史とサリヴァン先生!

こんばんは。peachです。

 ヘレン・ケラーHelen  Keller)女史をご存じですか~??

彼女は、『奇跡の人』として知られていますね。日本にも何度か訪日されているのでおそらく親日家だと思われます。また、恩師のサリヴァン先生も有名ですね。

今日はヘレン・ケラー女史サリヴァン先生について書いてみます。

お読みいただけたら嬉しいです♪(★はあくまで私なりの注釈です)

 

◇幼少期のヘレン・ケラー

 1880年にアメリカで生誕し、2歳の時に高熱に伴う*髄膜炎に罹患する。医師と家族の懸命な治療により、かろうじて一命は取り留めたものの、聴力、視力、言葉を失い、話すことさえ出来なくなった。★両親からしつけを受けることの出来ない状態となり、非常にわがままに育ってしまう。(*髄膜(脳および脊髄を覆う保護膜)に炎症が生じた)

 ★わずか2歳で盲聾唖(もうろうあ)者になってしまったヘレン・ケラー。聴覚を失い音の存在を知ることができないため、発声方法が分からず喋れません。本人も、感情の表現方法が分からなかったと推考します。両親の苦悩が目に浮かびますね。

 

◇サリヴァン先生との出会い

 ヘレンの両親は、パーキンス盲学校の校長先生に手紙で家庭教師の派遣を要請し、派遣されたのが★同校を優秀な成績で卒業したアン・サリヴァン(通称アニー)だった。二人が出会った時ヘレンが7歳、サリヴァン先生が20歳だった。

 ★サリヴァン先生は小さい頃から弱視だった(手術をして派遣当時はすでに視力があった)ため、ヘレンの家庭教師に抜擢されたと思われます。

 

◇サリヴァン先生の教育

 サリヴァン先生は、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「*指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンは、諦めかけていた★「話すこと」ができるようになった。サリヴァン先生はその後、約50年にもわたって、よき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになる。

 ★聴力を失っても適切な訓練を受けることで、声の出し方を習得することが出来るのです。ヘレン・ケラーには妹がいますが、妹の孫によれば、抑揚はないものの話すことができたそうです。発声は克服できるので、「三重苦」と言われてはいますが実際には盲聾者という「二重苦」の印象だったと思います。(聴覚障がい者=まったく喋れないというイメージを持つ人は今もまだいるみたいですが…)              *指文字は、アメリカの指文字(A.B.C…)になります。サリヴァン先生に7歳で出会い50年も支えてもらえたヘレンは幸せだったと思います。とてもいい出会いですね。

 

ヘレン・ケラーの学歴

 8歳からサリヴァン先生の母校・パーキンス盲学校に3年通学。

 10~11歳でホレース・マン聾学校の校長、サラ・フラーから発声法を学ぶ。

 14~15歳でライト・ヒューマソン聾学校に入学し発声の勉強に励む。

 16~17歳でケンブリッジ女学院に入学するが、サリヴァン先生が校長のアーサー・ギルマンと教育方針をめぐって衝突したため、1年でヘレンはケンブリッジ女学院を退学する。ヘレンは、もう一人の家庭教師、キースの手を借りて勉強を続ける。

 19~20歳でラドクリフ女子大学(現:ハーバード大学)に入学。4年後に卒業、文学士の称号を得る。

 

ヘレン・ケラーの自著・出演

・1902年『わたしの生涯』を出版。

・1918年ハリウッドで自叙伝を映画化した「救済」に出演。

・1927年『「わたしの宗教」』を出版。

・1955年サリヴァンの伝記『先生』を出版。

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 ラドクリフ女子大学(現:ハーバード大学)大学を卒業し、文学士の称号を得ているうえに発声も克服しているので、努力家であり頭が良い人だったと思います。

 ヘレン・ケラーの来日など他の話については長くなってしまうので、別記事でお話ししたいと思います。良かったら、また見に来てください~♪

 

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